汁粉

 口が渇いていると思い,懐の財布を確認して店に向かった。売店の喧騒の中5dlの紙パックの棚をざっと眺めてみる。そこには僅かに売れ残ったお茶などが残っているだけで心惹かれるものは何もなかった。心残りにため息を吐きつつ辺りを見渡す。大きなガラスの扉の向こう側には所狭しとペットボトルが並んでいた。それらもまた私の心を潤すには程遠いものに感じられた。いつの間にか口の渇きはなくなり,それに変わって胃のもたれが首を擡げてきた。胃の底に鉛のような不快な塊が蠢いている,そんな感覚だった。
 ふと足元を見るとそこにはダンボールに詰められた缶のコーヒー。白いパッケージに描かれた薄茶色い文字。匙で撹拌した熱いコーヒーにミルクを注ぐ黒地に白の螺旋が混ざっていく。私の乏しい想像力はそんな様子をイメージした。屈み込んで何心となくそれを手に取ってみると,少し冷たくゆっくりと体温を持っていかれる。すぐ傍に置いてある透明プラスチックのショウケースにはこれと同じ物がいくつも温められている。上部が窄まった円筒形の白い缶。ケースの右端にそれはあった。しかし,私の視線は右端まで至らなかった。その一つ左隣の小豆色の外装に白の文字を印刷した小さな缶に目が止まり,そこから視線が離せなくなっていた。黒豆しるこ。そう書いてあった。
 この瞬間,この世界には私と汁粉しか存在しないような錯覚に陥った。私は甘くべたつく汁粉が口腔を通り喉を過ぎ胃を洗っていく様を,胃の底に滞る不快な塊を流していくその快感を想像して思わず微笑んだ。恐る恐る手を伸ばし缶に触れてみる。缶は熱かったが,手に取れない熱さではなかった。一本だけ取り出し几帳面にケースを閉じると,すぐに掌が熱くなりもう一方の手に持ち替える。店員がどのようにしてこの熱い缶を掴んでPOSにバーコードを読ませるか楽しみだった。私は会計台に缶を置いた。レジスターに立つ中年女性はまるで表情を変えずに殆ど缶に触れることなくバーコードに機械を這わせ読み取らせた。私は玩具を奪われた幼児のように詰まらなく店を後にした。
 汁粉は美味しかった。美味かったがそれだけだった。口の中にべたつく汁粉は喉を潤しもしなければ胃を洗い流しもしなかった。中身を失い冷えた缶はさながら融けた雪だった。雪は降り,積っている間は雅やかで華やかで私の心を落ち着かせ輝かせる。しかし,一旦融け始めるともう手の付けようがない。濡れた大地はぬかるんで人の足を掴み,跳ねる泥は着物を汚す。風流に魅せていた雪は融けてしまえば掌を返して人を害することに腐心する。
 冷たく無情な缶はゴミ箱の縁に当たって結核の胸の如き空虚な音を響かせた。



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