冬の日(上)

 その年は立冬を境にして唐突に冬がきた。
 カヤは寒さに耐えかねていつもより早くに目を覚ました。蒲団から出ると、縁側の雨戸を細く開けて隙間から村の景色を眺めた。その日、霜朝のミズホ村は白銀にきらめいていた。少し離れた隣家の古い茅葺き屋根も、緑の残る大地も、村の周囲に生える(もみ)の老木も、地にある物は一様にきらきらと光って見えた。この村が白い輝きに包まれるのは初冬の一時期だけだった。本格的に冬になれば空は暗い雪雲に覆われ、陽の光は地上に届かなくなる。
 隙間から侵入してきた冷気が足下を通り抜けた。カヤは濡れた手で足首を捕まれたような冷たさを感じ、総毛立つ震えを覚えた。鈍重な雨戸は動くのを嫌がり必死に抵抗したが、カヤはそれを力任せに戸袋へ収め、薄い硝子(ガラス)戸を閉めた。
「お姉ちゃん、起きてよ。霜がはえたよ」朝日を浴びて眩しそうに目を覚ました姉のカナに話しかけた。カナは首まで蒲団を被ったまま上半身だけ身を起こした。「んー」生返事を一つして眠たそうに目をこすった。
 カヤは両親と姉の4人で暮らしている快活な少女だった。垢抜けていない清純な行動力があった。2つ上の姉のカナは妹とは対照的に床しく、楚々とした明眸はカヤの憧れであったが、蒲柳の質はしばしば彼女を病褥に沈めた。
 陽が高くなって氷が溶け土が弛んでしまう前にカヤは凍った地面の上を足任せに歩き、走り回った。この輝く世界を心ゆくまで眺め、自分もその一部に組み入りたかった。凍った砂質の土は、踏むと微かに乾いた音を立てて崩れ、足跡を残した。水を多く含んだ粘土質の土は硬く凍りついて、御影石のように硬かった。霜の降りた下生えを踏むと、草は霜と一緒にだらしなく潰れ、白粉が剥がれ落ちて地の青さを露呈した。それが楽しくて歩き回るが、小半時も待たずカヤは飽きて帰ってきた。「ほら、泥を落として」縁側に座って眺めていたカナが足元を見てたしなめた。

 冬が深まるとミズホ村は厚い雪に覆われる。貧しく閉鎖的なミズホ村の人々を象徴するような暗い雪雲は冬の間中途切れることは稀で、厳冬の村はのしかかるように静かだった。地面を覆う雪は分厚い雲の下でいつも冴えない灰色にくすんでいた。長い宵と雪暗れは村人を暗鬱とさせ、遅い薄明と急迫な夕暮れは村を陰気にした。
 その日、カヤは姉の16歳の誕生日に供そうと早暁から山向こうに広がる湖に魚を釣りに行った。
 カヤは釣りが好きだった。とりわけ穴釣りは格別だった。凍寒に挑み氷に穴を穿つ作業。分厚い堅氷に開いた穴から垂れた糸に幾つもの魚が食いつく感触。心を無にして魚がつくのを待つ孤独と無限の無聊。それらすべてが好きだった。村の同年代からは男の子みたいだと評されたが、それでも釣りは好きだった。
 村から湖へと続く獣道の如き雪道を行く。村を出れば大地は踏み固められることのない深雪に埋もれ、地面は見えない。そんな雪の上にも行き来する足跡が道を残していた。それは人の足跡だったり獣の足跡だったり、また、得体の知れない何かを引き摺ったような跡だったりする。往来と呼ぶにはあまりにも心許ないものだった。カヤは防寒具に身を固め、深靴に輪樏(かんじき)を履き、慣れた足取りで歩く。細雪(ささめゆき)が僅かにぱらついていた。少しの雪であっても遙か遠くの山々は霧雪で虚ろな薄墨色に染まった。気温は低いが風が弱く、あまり寒さを感じない。それでも、冷たく乾燥した空気に当てられ、肌はささくれた。
 (まば)らな柊と八つ手の森には峠を越えた辺りに、枯れかけて精彩を欠いたそれでいて見事な佇まいを見せる蝦夷松(えぞまつ)が一本だけ生えていた。何百年も前、このあたりは蝦夷松の群生地だったという。カヤが物心ついた頃には既にこの一本しか残っていなかった。カヤは一本だけ残ったこの蝦夷松に畏敬のような感情を抱いていた。いつものように、この蝦夷松を見上げた。松葉は年老いて色を失い、綿のように積もった冠雪に枝は弱々しく撓っていた。小さい頃はよく登って親に叱られたものだが、今では幹から折れてしまいそうに思えて下から眺めることしかできない。一息吐くと再び歩き出した。湖まであと少しだった。
 湖に出ると突然風が吹き立ってきたように感じた。氷上には遮蔽となる物は何もなく吹き付ける寒風に直接晒される。厚手の頭巾の中で耳がヒリヒリと痛んだ。カヤは場所を決めると(ござ)を敷いて背負っていた荷物を下ろした。背負い袋を解体し、穴釣り用の道具を一通り開き、休む間もなく準備を始めた。
 穿孔機(アイスドリル)を廻して、分厚い氷にゆっくりと穴を開ける。氷原に突き刺さった穿孔機を引き抜くと、現れたきれいな円筒形の穴に寒水がせり出してきた。水に混ざるシャーベット状の氷を柄杓(ひしゃく)で搔き出した。
 竿の先端から垂れた糸に付いているいくつもの鈎にそれぞれ餌を付けた。革手袋をしたまま一つ一つ器用に餌を取り付ける。糸を穴に垂らし、おまじないのように(おもむろ)に竿を揺すった。あとは毛布を被って待つだけだった。

 昼前には小さな魚で魚篭(びく)がいっぱいになっていた。思いがけず大漁だった。荷物を纏め、凱旋の準備をする。氷結湖から陸に上がるとどこか落ち着く。湖の上では足下の氷にいつ裏切られるかという不安が常につきまとう。これだけ分厚い氷が割れるはずないのに。分かっていてもその気持ちは拭いきれなかった。
 蝦夷松の脇まで来た頃には雪が強くなっていた。そんな中、一瞬だけ風籟が消えた。その刹那、凛烈たる無音の中にサクサクという雪の積もる無常に淡い音が響いていた。その音を意識し、耳を澄ませた。途端疾風に見舞われた。無粋な風に小さな声で毒突いた。
 そのとき、カヤの悪態に反応したかのように背後から軋るような音がした。振り向くとそこに見える情景に違和感があった。景色全体が自分の記憶とは乖離し、歪んでいるような奇妙な風に見えた。目を凝らして見ると僅かに蝦夷松が傾いていることに気づいた。蝦夷松はカヤに見届けられるようにして、幹が(ひし)げる音を痛々しく高めながら、そのままゆっくりと傾きを増していった。そして静かに雪の中に沈んだ。朦々と舞い散った雪の粉が落ち着く頃には、カヤは根本に駆けつけていた。幹は根元の辺りで折れていた。折れた松は雪の中に横倒しに沈んでいた。遠くから見たら雪中から上向く枝が新芽のように見えたかもしれない。間近で見ると枯れ枝には生命力が全く感じられなかった。カヤは折れ目のささくれに指を這わした。今まで倒れなかったのが不思議なくらいに朽ちて、乾燥していた。少し強く押すと木の繊維がぼろぼろと崩れ落ちた。カヤは少しの間この場に佇んだ後、虚無感を抱えたまま村へ歩き出した。
 蝦夷松が倒れたことで敏感になっていたのか、何か異変のようなものを感じた。それは峠を越えてから、山を下りれば村に着くという段になってからだった。風のすせび泣く音以外は聞こえない。峠から見下ろす村は飛雪の向こうに薄ぼんやりと感じられるだけだった。具体的に日常との違いは説明できない。それは僅かな大気の乱れなのか、カヤの憂愁を表象しているだけか、どちらであれ多分に感覚的なものだった。風は西の山間から鋭く吹き付ける。呼吸さえも拒むほどに苦しい冷たい風はミズホ村を通過し、山を登って不穏な空気を運んでいた。峠から下りるだけの短い道のりがもどかしかった。スキーで来るのだったと思いながら帰路を急いだ。急いだところで衾雪(ふすまゆき)の中、そう速く走れるものでもない。畢竟歩くのと大して変わらない。気持ちだけ逸っていた。
 村に近づいても全く活気が見られなかった。氷のように固まった雪路の上に少しだけ積もった柔らかい雪には幾筋もの足跡が乱雑に刻まれていた。その足跡も降り続ける雪に消されかけていた。雪の間に垣間見る村は少しずつ姿を現したが、全貌は見渡せない。不安に動悸が高鳴る。
 村には壁もなければ柵もなく、すなわち明確な境界線はどこにも存在しない。それでも、どの辺りからが村であるのかという認識は大雑把ではあるが村民共通のものがあった。村に踏み入るが、村内はあまりにも人の気配がなかった。この季節のしかも風雪荒れる天候の中、屋外に出る酔狂はそういはしない。かといって、屋内に引き籠もって火も灯さず小さく息を殺しているという道理もない。村に入って最初に目に付く外れの一軒家には気紛れで吝嗇な老人とその孫が幽栖していた。理由は話さないがカヤが小さい頃に街から越してきたという。老人は博覧強記故に村民からは一目置かれる存在であり、その性格から半歩距離を置かれていた。孫はカヤよりも年下の少年だった。祖父の影響か小生意気な知識を振り回したが、その多くは村では役に立たなかった。またその知識は田舎での常識を犠牲にしたものでもあった。
 老人の家に近づくと、半開きの戸から雪が吹き込んでいるのが見えた。「おじゃましまー・・・・」不審に思い、控えめに声を掛けながら家の中を覗いた。否応なしに状況を理解した。
 寒々として薄暗い室内には少年と老人が生臭い血溜まりの中に倒れていた。そこは掠奪の(あと)だった。老人は一刀のもと袈裟に斬られ、少年は片腕を切断されたうえ胸を貫かれていた。家の中は荒らされ、なけなしの食糧は悉く持ち去られていた。
 カヤは弟みたいに思っていた少年の亡骸を呆然と、時間の経つのも忘れて見下ろしていた。寒さで心まで凍えそうになったとき、我を取り戻し自分の家族に考えが巡った。カヤは今度こそ走った。
 カヤの家は戸が開け放たれていた。外気に蹂躙され身を刺すような寒さの渦巻く屋内で3人は無惨に息絶えていた。華奢で繊細なカナは儚くなってなお美しさが薫った。鈍い刃物で貫かれた下腹は既に流れの途絶えた血で赤黒く醜怪に染まっていた。声が出せなかった。隙間から吹き込む風の音も耳に入ってこなかった。カヤは姉の冷たくなった体を抱きしめた。痩身薄弱なカナはとても軽かった。カヤは愁嘆と閑寂でどうしようもなく辛いのにまるで唖になったかのように泣血を声に出すことができなかった。嗚咽さえも出てこなかった。優しかった姉はもう何も言ってくれない。カヤは薄く開いた姉の目を閉じて蒲団をかぶせた。そうすると、カナはただ眠っているだけに見えた。
 日が暮れ、いつの間にかカヤは眠っていた。

 寒かった。手を握っている母の温もりは今にも消えてしまいそうな淡いものだった。それでもカヤはその淡白な温もりを求めて貪るように母の手を掴んだ。明るくなっている外界がカヤの意識を無理矢理現実に引き戻した。目を覚ますとそこは十数年間暮らしてきた家だった。硝子越しに突き刺す仄かな曙光が眩しかった。カヤが握っていた冷えた温もりは姉の手だった。カナの手はいつも病人のように冷たかった。
「お姉ちゃん、手が冷たいよ。暖かくしないとまた風邪ひいちゃうよ」カヤはそう言って姉の手をぎゅっと握ったが、カナは返事をしなかった。「お姉ちゃん、起きてよ。いつまでも寝てると脳味噌が腐るよ」カヤは姉の硬い(からだ)を揺すった。反応はなかった。
「早く起きないと蒲団剥がしちゃうよ」語調を強めて蒲団に手を掛けた。
 無言。
 これだけ言って全く反応がないのは珍しかった。カヤは勢いよく蒲団を引っ張った。
 どす黒く染まったカナの下半身を見たとき、カヤは全て思い出し、周囲を認識した。家の中の異様な寒さに気づいた。
 目の前には昨晩から変わらず家族3人共が死に絶えていた。カヤが握っていた姉の手の温もりは彼女の体温が移っただけであった。カナの血がべったりと移っていることに気づいた。カヤは徐々に冷えていく姉の手を自分の頬に当て、今度こそ声を出して泣いた。血の通わぬ白磁の肌はとても冷たかった。
 日光を遮る厚い雲はミズホ村に深い陰を落としていた。カヤは咽が嗄れても泣くのをやめなかった。漸く落ち着いた頃には既に日が暮れようとしていた。半刻の後、カヤは旅装束に身を包み、腰には狩猟用の幅広の山刀を下げていた。
 茅葺きの屋根はよく燃えた。黒煙は天を焦がし、根雪を溶かした。生まれ育った村が燃える。カヤ以外に村人は誰一人として生き残っていなかった。カヤは一軒一軒火をつけて掠れた声で村人の名を呼び悼み回った。そうして、追想と懐郷を心の底深くに封じた。
 カヤは村を出た。




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